イグナティエフの著作を読むようになってからかなりの年月が経つ。どの作品からも強い刺激を受けるが、同時に、どこかつかまえがたいという感覚もつきまとう。彼の文章が分かりにくいわけではない。難しい問題に取り組んでいるにもかかわらず、晦渋なところはほとんどなく、むしろ明快な文体が彼の身上である。にもかかわらず「つかまえがたい」と感じるのは、書かれていることそれ自体というよりも、いわばメタ・レヴェルのことに関わる。彼の文章には、理性的で沈着な文体と、情熱的でドラマティックな修辞とが入り交じっている。そのことは、彼が学者・ジャーナリスト・作家・政治家を兼ね備えた経歴の持ち主であることと無縁でないだろう。一見したところどう結びつくか分かりにくいこうした多面性を持つイグナティエフとは、一体何者なのだろうか。
この謎の一因は、彼が立ち向かっているのが解きほぐしがたい難問である点に求められるかもしれない。「より小さな悪」という言葉がそれを象徴する。善か悪かの選択が迫られているのであれば、たとえ「善」の実行に種々の障害が横たわっているにしても、構図は明白であり、とりあえずの判断にはあまり迷わないですむ。しかし、どちらに転んでも「悪」でしかなく、そのどちらが「より小さな悪」かという選択が迫られている場合には、判断はより一層困難となる。
もっとも、これだけであれば、イグナティエフの専売特許というわけではない。かけ離れた例だが、スターリン時代ソ連の歴史家たちが帝政ロシアの領土拡張を正当化しようとして用いたレトリックが、まさに「より小さな悪」であり、この概念を、どの事例に、どのように当てはめるかをめぐって、多面的な論争が繰り広げられた(立石洋子『国民統合と歴史学』学術出版会、二〇一一年)。おそらくイグナティエフ自身は、この例と自分の間に類似性があるとは認めたがらないだろうが、論理的には、ここに共通する構図があるのは否定しがたい。あるいはまた、E・H・カーの例も挙げられる。カーといえば、イグナティエフが傾倒したアイザイア・バーリンの論敵だが、にもかかわらず、「より小さな悪」という考え方を重視した点では意外な共通性がある(拙著『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦』有志舎、二〇一一年、第九章)。こういうわけで、「より小さな悪」という問題にこだわる限りでは、大きく隔たった諸論者の間に共通性があるが、では、そういう中でイグナティエフの特徴はどこにあるのだろうか。
『許される悪はあるのか?』でイグナティエフが力説しているのは、何が「より小さな悪」かに関わる判断は、「当事者論争主義的審査」にさらされねばならないという論点である。これは抽象レヴェルでは大きな説得力を持つ重要な主張である。と同時に、彼はそうした抽象的一般論で満足することなく、多くの事例を挙げ、あるところではテロリストの心理に分け入り、あるところでは対テロ作戦を指令したり遂行したりする人々の考え方を検証して、「より小さな悪」の論理が具体的にどのように適用されるかを考えている。このように抽象レヴェルの考察と具体的個別事例に関する議論とを組み合わせているのが、この本の一つの特徴であり、そこに独自な魅力があるともいえる。
だが、各所にちりばめられている各論的記述を読むうちに、ある事例については細やかで内在的な考察を進めているのに対し、ある事例についてはあっさりとした外在的結論で片付けているというアンバランスがあることに気づく。それは無理からぬことである。多種多様な個別事例のすべてに通じ、どれについてもバランスのとれた判断をするなどということが一人の著者にできるはずもなく、それを要求すること自体が無理だといえば、それまでの話である。しかし、ではどうしてイグナティエフはここまで手を広げた論を展開したのだろうか。もっと手堅く課題を限定すればこうした問題は起きなかったのに、という疑問が生じてくる。ここで、冒頭に記した疑問──一体彼は何者なのか──に立ち返る必要に迫られる。
ある人の著作を読み解く際に、その人の出自とか先祖とかを問題にするのは必ずしも有意味な作業ではなく、むしろ安易なレッテル貼りになってしまう危険性も大きい。だが、イグナティエフの場合、先祖が多数の大物政治家や外交官を輩出した貴族の一家であり、そのことを彼自身が強く意識しているという事情を見落とすこともできない。日本ではあまり知られていないことでもあるので、この点に簡単に触れておきたい(より詳しくは、前掲拙著第三章の補論参照)。
マイケル・イグナティエフの先祖に当たるイグナティエフ家は、一九世紀から二〇世紀初頭にかけてのロシア史に跡を残す政治家や外交官を多数輩出した。中でも最もよく知られているのが、マイケルの曾祖父ニコライである。彼は外交官として北京条約締結をはじめとする業績をあげ、特にコンスタンチノープル大使として大きな役割を果たした後、国内では内務大臣をつとめた。このニコライの息子パーヴェルは帝政最末期の文部大臣となった。興味深いのは、このニコライとパーヴェルの父子は、皇帝に仕えた高官という点では共通するものの、父は帝国権益拡張に尽力したスラヴ派、息子はイギリス風の立憲君主制を理想とする西欧派リベラルと、政治的発想を異にしていた点である。立場を異にする父と子の相克という構図は文学作品などでおなじみのものだが、この例の場合、リベラルな息子は保守的でスラヴ派の父と立場を異にしつつも、祖先への敬意を失わず、失意のうちに世を去った父をねんごろに弔った。このような、自分はリベラルだが、保守的帝国官僚の伝統を尊重し続けるというパーヴェル(マイケルにとっては祖父)の像を、マイケルは『ロシア・アルバム』で深い共感をこめて描いている。マイケルが「リベラルなタカ派」と呼ばれ、「帝国」というものを全否定しない立場をとっていることはよく知られているが、そこには祖父パーヴェルと相通じるものがあるように思われる。そういう人だからということですべてを決めつけてしまうのは性急だろうが、彼が書斎派の学者におさまろうとせず、行動派知識人としての人生を選んだ背景には、そうした大物政治家たちの末裔という自己意識があったのではないか。こう想定することは、彼自身が先祖について書いていることに照らして、さして無理がないように思われる。
もっとも、二〇一一年カナダ議会選挙における自由党大敗をうけて党首を辞したイグナティエフは、政界からの引退を声明したという。とすると、かつてカーがある時期以降は現実政治への発言をしなくなり、アカデミックな歴史研究に沈潜していったのと同様の道を、彼もたどることになるのだろうか。今後のイグナティエフの歩みにも興味を引かれる